読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ORANGE diary

日常のファンタジーへと

生まれた町はその時

私の出身地が宮城県だということは前述のとおりです。
最近はニュースでもよく聞く地名となったところですが、それまではほんの小さな静かな町にすぎませんでした。

 

あの日、なかなか連絡が着かずにいたおばあちゃん。おじさんおばさんいとこ。

 

家が津波に飲まれていました。

 

一番ひどかったおばあちゃんち。
海からはかなり距離がある場所だけど、津波警報を聞いてやっぱり避難所に逃げようと靴を履いていたところで職場から命からがら戻ってきたおじさんが玄関先で「もう水がそこまで来てるから避難所にはいけない」と悲痛な一言を放ったそうです。おじさんはその時点で帰宅途中に津波で車を失っていました。おじさんとおばさん、おばあちゃんは2Fにとりあえず避難。できる限りの食糧と防寒具を持って。

結果的に海から直接水が来たわけではなく線路を伝ってきた津波で側の川が増水し土手が決壊、川からの水で1Fがすべて水没してしまいました。


水が引くまで2週間、当時87歳だったおばあちゃんと足の悪いおばさんははガスも水も電気もトイレもない2Fでずっと生活することになったのです。おじさんは数日後に少し水が引いてきたところで外に出て食糧をレスキューの方からもらったり自衛隊の人に報告をしたりしていたそうです。いとこは職場から実家に戻るに戻れず2週間職場に待機。

水が引いてもライフラインは戻らず、家の片づけをするにも水がないので掃除もできない。一時避難所にいました。しかしおばあちゃんの体調を心配したおじさんは頃合いを見て都内にいる別のおばさんの家におばあちゃんを一時避難させることを決意しました。余震も続き、高速道路もすぐ復旧したとは言え自衛隊の方の邪魔になってはいけないのでおばあちゃんを迎えに行くのにもかなり時間がかかったそうです。

なんとか無事におばあちゃんを迎えに行くことができたとおばさんから連絡があったのですぐにおばあちゃんに会いに行きました。思ったより元気そうでほっと一安心。おばあちゃんもたくさん話したいことがあったみたいでしばらくお話に付き合いました。


震災から1か月ちょっとたったころ、未だガソリン、掃除用具、食糧、水などが不足し現地では調達できず配送も受け付けてくれない為にうちの家族で話し合い、おじさんや他の親戚の家に直接配りに行くことになりました。掃除のお手伝いもできたらいいなと思い自分たちの掃除道具も一式積むことに。

このために私は会社に長めの休暇を申請し、みなさん快く送り出してくれたのですが、それだけでなく当時の部長がカンパを集めてくれていたらしく部署と有志の方々から義援金を受け取りました。会社からも見舞金が出ました。みなさんの思いが嬉しくて号泣。しっかり親戚に届けてくるねと。どこかわからない団体に寄付をするよりも直接親戚に手渡せることができるのならばと思い私もかなりの額を包みました。結局最終的には物資よりも家の修繕費や家財道具を一からすべて買い直さなければならず当座の現金が必要と聞いていたからです。

 


東北に入るにつれて景色は一変しました。見慣れた景色だったところが跡形もなくなってます。残っている家はブルーシートだらけ。さらにおばあちゃんちの近くまでいくと津波で汚れた家財道具が各家庭から道に出されていて車が通れないくらいふさがっている箇所が何か所も。景色はすべて灰色でした。

おばあちゃんちではおじいちゃんの仏壇が半分まで汚水に漬かった跡があり、さらにおばあちゃんの大事な着物やお母さんが実家に預けていた小さいころの思い出の品がすべて水没した、もしくは流れてどこかに行ってしまったとのことでした。遊びに行くといつも出迎えてくれていたおうちの景色はもうそこにはありませんでした。私が生まれた時に過ごしたおうちなのに…。


いままで書いてきた話は母方の祖母の話。
父方の実家は家は水没を免れたものの家の玄関手前まで水が来たため1週間家を出ることができなかったとのこと。庭で飼っていた錦鯉やチャボはいなくなってしまい、丁寧に手入れされた庭は泥だらけになっていました。おじいちゃんが大事にしていた庭。むなしい気持ちでいっぱいになりました。

 

おじさんに、父と母が結婚前にそれぞれ住んでいた家や学校が津波に流された話を聞かされ母は涙をこらえていました。両親が通っていた小学校はたくさんの犠牲者を出しニュースにもなっています。(後に紅白で某歌手がそこを中継会場にして歌を披露していましたが…)実際に見に行きましたが確かにがれきの山となっていました。父親は無言でした。

 

母方の祖父のお墓は地震で倒れてしまい、そこに津波が来たのでバラバラに流されてしまったそうです。お墓参りもしたかったのですが手を合わせる場所がありませんでした。(ただ、数か月後に他府県から来たボランティアの方々の手により墓石を探し出していただき元通り戻していただいたとのこと。それを聞いてからまた日を改めてお墓参りに行ってきました)


5年も経った、まだ5年、感じ方は人それぞれ違いますが仮設住宅はまだたくさんありますし壊れたままの家なども日常の風景となってそこにあったりもします。自分が経験したことではないですが東北の方々の大変さ、無念さ、やりきれなさはいまだに計り知れないです。自分と密接につながっていないと忘れてしまいそうですがまだまだ完全復興ではないことをわかってほしいなと思います。

がんばれ日本。がんばれ東北。